朝から、歯が痛かった。
正確には「痛い気がする」程度だった。
右下の奥歯。
噛むと、ほんの一瞬だけ、神経に冷たいものが触れるような感覚がある。
我慢できないほどじゃない。
忙しさにかまけて放置できる、ちょうどいい不快感。
会社に着くと、いつも通りの一日が始まった。
「この資料、今日中ね」
「修正、まだ?」
「それ、先週も言ったよね」
20代後半。
役職はないが、仕事は任される。
責任は増えるが、裁量はない。
ミスをすれば怒られ、何もなければ存在しない。
昼休み、コンビニのおにぎりを噛んだ瞬間、
奥歯にズンと鈍い衝撃が走った。
一瞬、視界が白くなる。
「……っ」
誰にも聞こえないように、息を吸う。
口を閉じたまま、ゆっくり咀嚼する。
今度は、さっきより少し長く痛みが残った。
スマホで「歯医者 近く」と検索する。
評価は高く、説明が丁寧と書いてある。
夜遅くまでやっている。
会社帰りに寄れる。
――今行かないと、面倒になる。
そう自分に言い聞かせて、予約ボタンを押した。
夕方の会議は長引いた。
上司のどうでもいい確認と、
誰も責任を取りたくない沈黙。
その間も、歯は主張を続けていた。
ズキズキではない。
中から押されるような違和感。
定時を少し過ぎて会社を出る。
駅前の歯科医院は、ビルの二階にあった。
白い看板。
清潔そうな入口。
ガラス越しに見える、明るい待合室。
受付で名前を書くと、
若い女性が事務的に笑った。
「初診ですので、こちらご記入ください」
差し出されたクリップボード。
住所、電話番号、既往歴。
アレルギーの有無。
一番下に、細かい文字が並んでいる。
治療内容について十分な説明を受け、理解・同意の上で施術を受けます。
緊急時を含め、医学的に必要と判断された処置について一任します。
読んだ、と思う。
少なくとも、読んだ“気”はした。
ペンを走らせ、署名する。
名前を書く手が、ほんの少し震えたのは、
歯のせいだと思った。
「では、お呼びしますね」
診察室のドアが開く。
中は明るく、機械の音が微かに鳴っている。
治療台に横になる。
天井のライトが、ゆっくりと顔の上に降りてきた。
「今日はどうされました?」
医師は穏やかな声だった。
年齢は四十代くらい。
白衣はきちんとアイロンがかかっている。
「奥歯が、少し痛くて」
「なるほど。じゃあ、少し見てみましょう」
ミラーが口に入る。
ライトが眩しい。
ここまでは、
本当に、何もおかしくなかった。
「じゃあ、まずレントゲン撮りますね」
医師はそう言って、治療台を少し起こした。
顎を固定され、指示通りに噛む。
「力、抜いてください」
抜いているつもりだった。
だが、歯の奥がじんわりと主張してくる。
レントゲン写真をモニターに映しながら、医師は淡々と説明を始めた。
「ここですね。右下の第一大臼歯。
表面はそこまででもないですが、内部で進行しています」
画面の中の白と黒の境界を、ペンでなぞられる。
「虫歯、ですか?」
「ええ。ただ、一般的な“穴が開く虫歯”というより、
咬合圧による微細なクラックが入ってますね」
クラック。
聞き慣れない言葉。
「噛み合わせの力が集中すると、
エナメル質の下で応力が溜まるんです。
そこから内部崩壊が起きるケース、最近増えてます」
最近。
増えている。
自分だけじゃないという言い方に、少し安心する。
「じゃあ、削って詰めれば……」
「それも一つの方法ですが」
医師は画面を切り替えた。
別の角度の画像。
「すでに象牙質まで影響が出ています。
この状態で部分的に処置すると、
力のバランスが崩れて、再発率が高い」
再発。
その言葉が、胸に引っかかる。
「ですので、今日は負荷の再分配まで含めた処置をします」
負荷。
再分配。
意味は分かるようで、
どこか遠い。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。医学的には、こちらの方が合理的です」
“合理的”。
その言葉は、会社でもよく聞く。
治療台が倒される。
ライトが近づく。
「では、麻酔しますね。
チクっとします」
針が入る。
痛みは一瞬だった。
「今は違和感がありますが、すぐ効いてきます」
確かに、歯の存在感がぼやけていく。
代わりに、顎全体が重くなる。
「口、開けてください」
器具が入り、
金属音が口の中に満ちる。
「削る音がしますが、痛みはないはずです」
キーン、という音。
振動だけが、骨に伝わる。
「今、不安定化している構造体を除去しています」
構造体。
歯のことだと分かっているはずなのに、
まるで別のものを扱っているような言い方だった。
「問題のある部分だけを残すと、
周囲が代償的にダメージを受けます」
代償的。
「なので、影響範囲を含めて調整します」
調整。
削る時間が、思ったより長い。
音が、止まらない。
「少し、圧迫感がありますね」
圧迫感、という言葉にしては、
顎の奥で鈍く、嫌な感覚が広がっている。
「神経には触れていません。
触れていないですが、近接刺激は避けられないので」
近接刺激。
「一時的に違和感が出る方もいますが、
長期的には安定します」
長期的。
今のことより、
未来の話ばかりだ。
「次に、噛み合わせを確認します」
カチ、カチ、と噛まされる。
「……やはり、左右差が大きいですね」
「そんなに、ですか?」
「ええ。
このままだと、口腔全体の機能性に影響します」
口腔全体。
一部分の治療のはずなのに、
話が、どんどん広がっていく。
「ですので、ここからは全体最適を優先します」
全体最適。
その言葉を聞いた瞬間、
なぜか背中に、冷たいものが走った。
「ご安心ください。
すべて、事前にご説明した範囲内です」
医師はそう言って、
モニターを一度だけ、こちらに向けた。
そこには、
細かい図と、
専門用語で埋め尽くされた説明文。
どれも、
見た覚えのある言葉だった。
署名した、あの紙に、
確かに書いてあった気がする。
「では、続けますね」
ライトが、さらに近づく。
この時点では、
まだ痛みはない。
ただ、
何を“どこまで”やるのかが、
もう自分の理解の外にあるだけだった。
医師は、器具を持ち替える前に、ほんの少しだけ手を止めた。
モニターに映るレントゲン。
噛み合わせの図。
数値化された角度と圧力分布。
――きれいだ。
そう思った。
左右非対称。
わずかな歪み。
だが、その歪みは偶然ではない。
「人は、噛みしめた分だけ形を残す」
ふと、そんな考えが浮かぶ。
誰かに教わった言葉ではない。
いつからか、自分の中に定着している感覚だ。
この患者もそうだ。
口を開けた瞬間、分かった。
歯並びではない。
虫歯の進行でもない。
使い方だ。
必要以上に噛む。
不要なところで力を入れる。
逃がすべき負荷を、内側に溜め込む。
それは、歯だけの問題じゃない。
「……」
患者の喉が、小さく鳴った。
麻酔は効いている。
身体は動かない。
だが、意識ははっきりしている。
――今が、一番いい。
医師はそう判断した。
余計な感情が介入する前。
痛みが始まる前。
理屈がまだ通用する段階。
治療というのは、
壊すことではなく、整えることだ。
整えるためには、
一度、余分なものを取り除く必要がある。
それが歯であれ、
噛み方であれ、
開き方であれ。
「先生……?」
患者が、少し不安そうな声を出した。
医師は、すぐに視線を戻した。
表情は穏やか。
声のトーンも、いつも通り。
「大丈夫ですよ」
それは、嘘ではなかった。
「予定通りです」
予定。
その言葉を、
医師は時間的な意味で使っていた。
患者は、おそらく
安心のための言葉として受け取っただろう。
そこに、ズレがある。
だが、ズレは問題ではない。
むしろ、
ズレを修正するための治療なのだから。
「少し、口を開ける補助をしますね」
器具が、唇の端にかかる。
「顎の可動域を正確に測るためです」
説明は正しい。
処置も、正しい。
ただ、医師の意識は、
すでに“開いた後の形”に向いていた。
どこまで開くか。
どこで止めるか。
左右差を、どう均すか。
――この人は、きっと楽になる。
そう確信していた。
それが、
患者の望む「楽」と同じかどうかは、
考える必要がなかった。
すでに、
同意は得ているのだから。
「では、続けますね」
ライトが、再び近づく。
患者の口が、
もう一段階、開かされる。
違和感は、
この時点では、
まだ言葉にならない。
口を開く補助具が、思っていたより強かった。
「少し違和感ありますが、
顎の可動域を正確に測るためです」
医師の声は変わらない。
説明も、さっきと同じ調子だ。
だが、
開いている、というより“開かされている”感覚があった。
顎の付け根が、じわじわと熱を持つ。
痛みというほどではない。
ただ、限界に近づいていると、身体が教えてくる。
――これ、必要なのか?
頭の中で、ようやく疑問が形になる。
「ん……」
声を出そうとしたが、
器具が邪魔をして、うまく音にならない。
医師は気づいた様子で言った。
「大丈夫ですよ。
可動域の確認は重要です」
重要。
またその言葉だ。
「無理に広げているわけではありません。
あなたが本来持っている範囲です」
本来。
その言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
本来、こんなに開くものだっただろうか。
こんな角度まで、必要だっただろうか。
「……っ」
顎の奥で、
ゴリ、と小さな音がした。
音というより、
感触だった。
関節が、ずれたような。
あるいは、
本来触れない部分が、触れ合ったような。
「少し、圧がかかります」
圧。
さっきから、
使われる言葉が、どれも曖昧だ。
痛い、ではなく。
危険、でもなく。
圧。
違和感。
刺激。
どれも、否定できない。
だが、肯定もできない。
――これ、止めた方がいいんじゃないか。
そう思った瞬間、
別の考えがすぐ後から追いかけてくる。
――でも、医者だ。
――ちゃんと説明されている。
――同意もした。
逃げ道が、
理屈によって塞がれていく。
「次に、噛み合わせの最終確認をします」
器具が、少し外される。
「軽く、噛んでください」
噛もうとした。
だが、
顎が、思うように動かない。
「……あれ?」
自分の声が、
思ったより間延びして聞こえた。
「問題ありません」
即答だった。
「一時的に、可動制限が出ているだけです」
一時的。
「処置が終われば、
正しい位置に落ち着きます」
正しい位置。
まただ。
何が正しいのか、
誰が決めたのか。
聞こうとした。
本当に聞こうとした。
だが、口は開いたままで、
舌はうまく動かず、
言葉は、頭の中で渋滞する。
その間にも、
器具が増えていく。
金属の感触。
唇の端が、引っ張られる。
「今、軟部組織を保護しています」
保護。
唇が、
今までにない角度で引かれる。
――おかしい。
ようやく、
はっきりそう思えた。
痛みが来る前に、
恐怖が、言葉になった。
――これは、歯の治療じゃない。
――口そのものを、
どうにかしようとしている。
心臓が早鐘を打つ。
汗が背中を伝う。
だが、医師の声は、
相変わらず穏やかだった。
「順調ですよ」
順調。
「想定通りです」
想定。
その言葉を聞いた瞬間、
ぞっとした。
――想定?
誰の。
どこまで。
「では、
次の工程に入ります」
工程。
その言葉が、
取り返しのない区切りのように聞こえた。
ライトが、さらに近づく。
唇の端に、
今まで触れなかった器具が当たる。
この先、
痛みが来る。
はっきり分かった。
そしてそれは、
予定に含まれている痛みだということも。
最初の痛みは、
予告通りだった。
「少し、刺激があります」
その言葉と同時に、
顎の奥で、鋭い線が走る。
ビリッ、という感覚。
神経の表面を、爪で弾かれたような。
「――っ!」
身体が反射的に跳ねた。
だが、すぐに止まる。
動けない。
「大丈夫です。
想定内の反応です」
医師の声が、
遠くで聞こえる。
次は、
逃げ場のない痛みだった。
ズン、と
圧縮されるような感覚が顎全体に広がる。
麻酔が、
“効いている部分”と
“効いていない部分”の境目を、
はっきりさせてしまった。
――痛い。
はっきり、そう思えた。
「……ま、まって……」
言葉にならない。
だが、意思は伝えようとした。
右手が、
わずかに持ち上がる。

その瞬間だった。
肩に、
異様な重さが乗った。
「――っ?」
視界の端に、
歯科助手の姿が入る。
小柄で、
淡い色の制服。
さっきまで、にこやかに器具を渡していた人。
その人が、
自分の肩を、
片手で、完全に押さえつけていた。
動かない。
いや、
動かせない。
「動かないでください」
声は、静かだった。
感情が、ない。
もう片方の手が、
反対側の肩を押さえる。
身体が、
治療台に沈み込む。
――こんな力、どこに。
「安全のためです」
安全。
その言葉が、
頭の中で歪む。
顎が、さらに開かされる。
「っ、や……」
口を閉じようとした。
だが、歯科助手の手が、
顎の下に回る。
指が、
骨に直接触れる。
グッ、と
正確な力。
逃げ道を知っている動きだった。
「すぐ終わりますから」
終わる?
何が。
医師が言った。
「可動域、まだ余裕がありますね」
余裕。
助手が、
器具を差し込む。
今までより、
大きい。
唇の端が、
限界まで引かれる。
「軟部組織、テンションかかりますが、
裂傷は起きません」
裂傷。
その単語が、
遅れて理解される。
――起きない?
じゃあ、
起きる可能性があると、
想定しているということか。
「個人差です」
医師は、
何でもないことのように言った。
その瞬間、
痛みが爆発した。
キーン、ではない。
ゴリ、でもない。
引き剥がされる感覚。
唇の端から、
頬の内側へ。
皮膚が、
内側から裂けていく。
熱い。
焼けるように。
「――――!!」
叫びは、
音にならなかった。
ただ、
喉が痙攣する。
歯科助手の力が、
さらに強くなる。
小柄な身体からは
想像できないほど、
逃がさない力。
「もう少しです」
もう少し。
「今、
機能改善の最終段階に入っています」
最終。
その言葉と同時に、
ブチッという感触。
音ではない。
確実な、断裂。
視界が、
一瞬、白くなる。
口の中に、
生温かいものが広がる。
血だと、
分かる。
「はい、
きれいに開きました」
医師の声は、
どこか満足そうだった。
助手の手が、
まだ離れない。
「動かないでください。
今、固定します」
固定。
口は、
もう閉じられない。
裂かれた感覚が、
現実として、そこにある。
――やめてほしい。
――お願いだから。
その言葉は、
もう、
頭の中にしか存在しなかった。
「では、確認します」
医師は、器具を置いた。
ライトの角度が変わる。
眩しさの質が、さっきまでと違った。
「……え?」
自分の喉から出た音が、
思ったよりも広がって聞こえた。
口が、
異常なほど開いている。
いや、
開かれている。
顎の限界を越えて、
唇の端が裂けたまま、
形として固定されている。
痛みは、
もう「痛い」という感覚ではなかった。
熱と圧と、
何かが抜け落ちていく感じ。
「噛み合わせの問題は、
歯そのものではありませんでした」
医師は、
淡々とそう言った。
「……は?」
声にならない。
「正確には、
口腔内に形成された異物です」
異物。
その言葉が、
理解できないまま、
頭の中に落ちる。
医師が、
細い器具を、
自分の口の奥に差し込む。
――やめろ。
そう思った瞬間、
引っかかる感触があった。
ズズ、と
何かが動く。
歯でも、
骨でもない。
柔らかい。
だが、
生き物とも違う。
「……ほら」
医師が、
少しだけ力を入れる。
口の奥から、
黒ずんだ、粘り気のあるものが、
ゆっくりと引きずり出されてきた。
自分のものだと、
分かる。
だが、
自分の中に
そんなものがあった覚えはない。
「長年の噛みしめ、
抑制された感情、
逃がされなかった負荷」
医師は、
説明を続ける。
「それらが、
口腔内に機能的な塊として
定着するケースがあります」
ケース。
事例。
「歯は、その表層にすぎません」
助手が、
トレーを差し出す。
そこに置かれたそれは、
歯の形をしているようで、
していない。
噛み合うはずの部分が、
妙に滑らかだ。
「……これ、は……」
言葉が、
震える。
「あなたが、
噛み続けてきたものです」
噛み続けてきた。
仕事。
我慢。
飲み込んだ言葉。
言わなかった不満。
すべてが、
歯の奥に、
溜まっていた?
「取り除いたので、
もう再発はしません」
医師は、
はっきり言った。
「口を開く構造も、
最適化しました」
最適化。
「今後は、
噛みしめることも、
溜め込むことも、
難しくなるでしょう」
それは、
治療なのか。
それとも――
「鏡、見ますか?」
医師が、
何気なく聞いた。
断ることも、
選ぶことも、
もうできない。
鏡に映ったのは、
開きすぎた口と、
裂けた跡が
きれいに縫合された顔。
そして、
自分の中から出てきたはずの“それ”が、
どこか足りない気がした。
「……全部、取れたんですか」
自分でも驚くほど、
冷静な声だった。
医師は、
一瞬だけ、考えるような間を置いた。
「現時点では」
その言い方が、
すべてだった。
「経過観察しましょう」
そう言って、
診察は終わった。
医師が器具を持ち上げた瞬間、
それは――わずかに、動いた。
ピク、と。
筋肉の痙攣のようでもあり、
水の中の何かが身じろぎしたようでもある。
「……っ」
喉が鳴った。
それは、
歯ではない。
骨でもない。
臓器とも言い切れない。
黒っぽく、
湿っていて、
形が定まらない。
トレーの上で、
自分の意思とは無関係に、縮こまるような動きを見せている。
「反射です」
医師は、即座に言った。
声は穏やかだったが、
口元が――
わずかに、上がっている。
笑っているようにも見えた。
だが、笑顔と呼ぶには、
どこか角度がずれている。
「摘出後に、
こうした反応を示すケースはあります」
ケース。
その言葉の選び方が、
不自然に丁寧だった。
「……生きて、るんですか」
自分の声が、
他人のものみたいに聞こえる。
医師は、
すぐには答えなかった。
一拍。
ほんの一拍だけ、
考えるような間。
「“生きている”という定義次第ですね」
その言い方。
逃げているのに、
誤魔化してはいない。
「少なくとも、
機能していました」
機能。
それは、
治療の対象としての言葉だ。
歯科助手が、
素早く蓋を用意する。
だが、
完全に閉じる前に、
それがもう一度、
ぬるりと動いた。
逃げようとするわけでも、
襲おうとするわけでもない。
ただ、
そこに“あった”。
「っ……!」
身体が反射的に動こうとする。
だが、まだ、
固定は解かれていない。
医師は、
その様子を見て、
小さく息を吐いた。
――安堵?
それとも、
満足?
「ご心配いりません」
そう言いながら、
医師はトレーを
自分の方へ引き寄せる。
「これは、
あなたのものではなくなりました」
その言い切りが、
妙に強かった。
「治療は、
ここで完了です」
完了。
だが、
口の中の感覚は、
そう言っていない。
裂かれた跡。
広がりすぎた顎。
そして――
何かが、まだ足りない感じ。
「……先生」
声を振り絞る。
「これ、
みんなの口にも……
あるんですか」
医師は、
一瞬だけ、目を細めた。
そして、
笑った。
今度は、
はっきりと。
だが、
歯を見せない笑いだった。
「全員ではありません」
否定。
「ただ――」
肯定が、
必ず続く言い方。
「必要な人には、
あります」
必要。
「あなたには、
ありました」
断定。
「だから、
ここに来た」
その言葉は、
因果が逆だった。
歯が痛くなったから、
来たのではない。
来るべきだったから、
痛くなった。
そう言われている気がした。
「それは……
先生が……」
黒幕なのか。
選別者なのか。
ただの担当医なのか。
問いを、
最後まで形にできなかった。
医師は、
トレーに蓋をしながら言った。
「私は、
処置する側です」
処置。
「判断するのは、
別のところです」
別のところ。
その“どこか”を、
あえて言わない。
「次回の予約、
取っておきますね」
次回。
「経過観察です」
当然のように。
固定が、
ようやく外される。
口は閉じられないまま、
だが、
治療は終わったことになっている。
「お疲れさまでした」
医師は、
最後まで丁寧だった。
診察室を出る直前、
ふと振り返る。
医師は、
もうこちらを見ていない。
蓋をしたトレーを、
慎重に、扱っている。
まるで――
壊れ物か、
あるいは、
起こしてはいけないもののように。
ドアが閉まる。
その瞬間、
自分の口の奥で、
ごく小さく、何かが動いた気がした。
取り切れていないのか。
それとも――
最初から、
一つではなかったのか。
治療の翌日。
少し喋りづらいが、
「親知らず抜いたんで」と言えば、それで済む程度だ。
口の端には、
細い縫合の跡。
鏡で見ても、
“きれいに治っている”ように見えた。
仕事中、
いつも通りパソコンに向かう。
メール。
資料。
上司のどうでもいい修正指示。
集中していると、
ふと、
口の中がむず痒くなった。
縫ったところだ。
舌で触れると、
糸の感触がある。
違和感はあるが、
痛みはない。
――治りかけ、か。
そう思って、
無意識に、
舌でなぞった。
その瞬間。
ぬるっとした感触。
糸とは違う。
唾液とも違う。
何かが、
縫合の隙間から、
押し出されてくる。
「……?」
息を止める。
誰にも気づかれないように、
口を閉じたまま、
そっと舌を引く。
引っかかる。
糸が切れたわけではない。
内側から、動いている。
心臓が、
一拍遅れて跳ねた。
――まさか。
デスクの引き出しを開け、
ハンカチを取り出す。
顔を伏せるふりをして、
口元を覆う。
舌に、
柔らかい抵抗。
引っ張ると、
少しだけ、
出てきた。
黒っぽい。
細い。
だが、
自分の意思とは無関係に、くねった。
思わず、
噛みそうになる。
その瞬間、
はっきり分かった。
――噛んじゃいけない。
理由は分からない。
だが、
噛んだら、
何かが戻る。
慌てて、
そっと口を閉じる。
中に、
引っ込んでいく感覚。
縫合の跡が、
じわりと熱を持つ。
周囲は、
いつも通りだ。
キーボードの音。
電話の呼び出し。
誰かの笑い声。
上司が言う。
「どうした?
顔色悪いぞ」
「いえ……
大丈夫です」
声は、
ちゃんと出た。
だが、
自分の声が、
少し響きすぎている気がした。
まるで、
口の中が、
前よりも
広くなっているみたいに。
昼休み、
トイレで鏡を見る。
縫合の跡は、
まだそこにある。
だが、
糸の数が、合わない。
縫った覚えのない位置に、
小さな膨らみ。
触れると、
中で、
何かが応える。
その時、
歯医者の声が、
不意に蘇った。
「現時点では、取り切れています」
現時点。
スマホを見る。
歯医者からの
次回予約の通知。
件名は、
こう書かれていた。
【経過観察】
なぜか、
削除できなかった。
口の奥で、
また、
ごく小さく、動く気配がする。
――これは、
再発なのか。
それとも、
成長なのか。
考えた瞬間、
縫合の奥で、
何かが、
笑ったような気がした。
それ以上、
何も起きなかった。
少なくとも、
表向きは。
縫合の跡は、
数日で見えなくなり、
痛みも、
予定通り消えた。
仕事は続く。
会話もできる。
食事も、普通にできる。
ただ、
ときどき。
理由もなく、
口を閉じたくなる。
舌で触れないように。
噛まないように。
確認しないように。
何かがあるかどうかを、
確かめないために。
鏡を見る回数が減った。
歯を磨く時間が短くなった。
見なければ、
気づかない。
気づかなければ、
たぶん、
問題はない。
それでいい。
……はずなのに。
何もしていないのに、
ふとした瞬間、
口の奥が、
少しだけ楽になることがある。
なぜ楽になるのか、
考えないようにしている。
考えたら、
戻れなくなる気がするからだ。
今日も、
仕事は終わる。
電車に乗り、
家に帰る。
何事もなかった一日。
ただ一つだけ、
分からないことがある。
――最初に違和感を覚えたのは、
本当に、
あの日だっただろうか。
口を閉じる。
そのまま、
何も確かめずに。
