触れられた空白

朝の鏡の前で、私はいつものように髪を整える。
前髪は目にかからないように、軽くアイロンで流す。
学校では“ちゃんとしてる子”のままでいたい。
ほとんど無意識の習慣だ。

母はよく言う。
「遥は本当に綺麗ね。お母さんに似なくてよかったわ」
私は笑ってごまかす。
美人と言われるのは嬉しいけれど、それだけで中身を見られなくなるのは嫌だった。

でも、実際は違う。
学校では優等生の顔をしながら、
内心はいつも疲れていた。

波風を立てないように、
成績を落とさないように、
周りに嫌われないように、
全部気を張っているだけ。

気を抜けるのは、
スマホの中だけだった。

ゲームをしている間だけは、
人の顔色を読まなくていい。
正解も、期待も、評価もない。
ただ画面のキャラを動かして、指先だけに集中すればいい。

だから私は通学電車に乗ると、
わざと世界を閉ざすようにヘッドフォンを付ける。

周囲の話し声も、ため息も、舌打ちも、全部消える。
それがどれほど私を救っていたか、誰にも言ったことはない。

電車のホームに近づくと、いつもの悪夢が視界に広がる。
人、人、人。
押し合いへし合いの波。

私は細身で背も高くない。
満員電車はいつも不利だった。

でも、ゲームを起動するだけで、
そこは“ただの空間”になる。
人が押してこようが、肩が食い込もうが、私は私の世界にいられる。

ヘッドフォンで完全に耳を覆うと、世界の音がフッと遠のく。

——さあ、今日もミッションを進めよう。

ドアが開いた瞬間、
押し寄せる圧力が私の体を飲み込む。

細い肩は簡単に押され、
胸の前にリュックが食い込む。
背中には誰かの腕、腰には誰かの鞄。

でも私は慣れていた。
どれだけ押されても、
身体の中心に一本の軸を固定するように立つ。

スマホの画面には慣れ親しんだゲーム。
今日のクエストは反射速度が必要なやつ。
混雑の中でやるには難易度が高いけど、私はこの状況でこそ集中できた。

電車が動き始め、
押されるたびに身体のラインがじんわりと歪む。

胸骨の少し下のあたりに、
“押される痛みを感じるポイント”があって、
そこが圧で刺激されるたびに呼吸が浅くなる。

でもいい。
これくらいなら耐えられる。

周りがどれだけうつむき、
ため息をつき、
舌打ちをしても、
私は平気だ。

ゲームの中に逃げ込んでさえいれば。

そう思っていた——ほんの数分前までは。

その日、
ヘッドフォンの奥に、小さな“異音”がした。

最初はノイズだと思った。
ピチッ、ピチッと、水滴が落ちるような音。

でも音源が近い。
耳の奥、もっと奥——
脳に直接触れるような場所。

その瞬間、
背中に“妙に冷たい何か”が触れた。

人肌じゃない。
汗ばんだ温かさでもない。

もっと……
触れた瞬間に心臓が縮むような冷たさ。

私は無意識に振り返ろうとする。
でも後ろは満員で肩がロックされ、顔だけがぎこちなく動く。

そこには——人じゃなかった。

濡れた髪。
折れた首。
押し潰された片目。

そして、耳には
イヤホンが、肉の奥へめり込んでいた。

その少女が、
死人特有の動かない表情のまま、
口だけがゆっくりと裂けるように開いていく。

「……どいて、って……言ったのに」

次の瞬間、
世界が押し寄せる圧で潰れた。

少女の声を聞いた瞬間、
私の胸に、ありえないほどの圧力がのしかかった。

最初はただの“押されている”感覚だった。
でも次第にそれは、
押される → 押し潰される → 削られる
へと質が変わっていく。

胸骨が内側へ沈むたび、肺がつぶれていく感覚がわかる。
空気を吸おうとすると、喉の奥で鋭い痛みが走り、
呼吸が途中で途切れる。

息が入らない。

肺が、押し込まれたまま膨らまない。

細い体であることが、こんなに弱点になるなんて思いもしなかった。

ミシッ。

どこかで小さく骨の悲鳴がした。
自分の骨だ、と理解した瞬間、喉の奥から声が漏れる。

「……っ……ぅ、」

でもイヤホンが外界の音を遮断しているせいで、
誰にも届かない。
自分の声すら聞こえない。

世界は、静寂と圧迫だけでできていた。

周りの人に原形をとどめる意識がない。
押し合い、挟まり、潰れ、
彼らの身体はただの“重り”になっていく。

サラリーマンの男の腕が、私の肩にのしかかる。
汗の匂いと、衣服の生乾きの臭気。
イヤホンをしている彼は、顔をしかめて画面をスクロールし続けていた。

画面には株価アプリ。
指は素早いのに、私が潰れかけていることには一切気づかない。

女子大生らしき人は、私の身体を支えにしながら動画を見ていた。
私の肩に自分の胸を押しつけるように寄りかかっても、
バランスを取る以外の意味を感じていなかった。

イヤリングが揺れ、その金具が私の耳に当たっても、
彼女は眉一つ動かさない。

リュックを前抱えした少年が、
そのリュックの角を私の胸に食い込ませていた。
彼はスマホゲームに夢中で、
画面を連打する指の方が、私の胸より大事らしい。

圧力が増すたびに、
リュックの硬い角が胸骨を押しつぶし、
肺の中の空気が“ギュッ”と絞られて外へ逃げようとする。

でも、
呼吸ができない。

一番ひどいのは背後だった。
誰かの体重が、一定のリズムで私に沈み込む。
その重みは、完全に“預けている”感覚。
まるで私が壁の一部であるかのように。

私は人間ではなく、
肉と骨の塊として扱われている。

視界の端で、
床に押しつけられた少女の顔が揺れている。

あの怪異なのか、誰かの足の影なのか、
もう判別がつかない。

混雑の波が揺れるたびに、
私の肋骨が限界までしなり――

バキッッ

短く鋭い音。
胸の奥で熱が爆発するような痛み。
視界が揺れ、涙が勝手に零れた。

折れた。

わかる。
完全に折れた。

私は声を出そうとした。
でも空気は喉まで届かない。
呼吸が、もうほとんどできない。
吸った空気はすぐに潰され、
吐き出す空気すら、肺が押されて逃がせない。

目の前の少年が、
イヤホン越しに聞こえる音楽に合わせてリズムを刻むように揺れている。

その度に、
彼のリュックが私の胸にめり込み、でも空気は喉まで届かない。
体の奥から“ぐじゅ”という嫌な音がする。
それが私の臓器の音だと、
理解せざるを得なかった。

私は、
自分の身体が“乗客の一部”になっていくのを感じた。

押されて、嵌まり、歪み、
この空間にピッタリと収まる“形”になっていく。

車内は音がないのに、地獄だった。

・スマホの光に照らされた青白い顔
・ため息
・髪が頬に触れる感覚
・押しつぶされていく体のライン
・足の踏み場がなく、どこに重心を置けばいいのか分からない恐怖
・誰一人として周囲を見ようとしない眼球の動き

全員が自分の世界に閉じこもり、
周囲を“背景の一部”として扱っていた。

そのとき。

耳の奥で、
少女の小さな囁き声がした。

ヘッドフォンを通して、
頭の骨の内側を這うような声。

「……ねえ、わかるでしょ……?」

背後から、誰かの腕が“ぶら下がるように”私の肩にかかった。
重みは軽いのに、骨に刺さるように痛い。

動けない。
逃げられない。
呼吸できない。

少女の声は続く。

「押されて……潰されて……息ができなくても……
 誰も見てくれないの……」

彼女の声は、
ヘッドフォンから流れているのか、
脳の内側で響いているのか判別できない。

息ができなくて視界がにじむ中、
私は気づいた。

——周囲の人たちは誰も私を見ていない。
——でも少女だけは、私を見ている。

押し込まれたままの視界の先、
スマホが手から滑り落ち、床へ。
その画面が自動的に切り替わり、
勝手に開かれたニュース記事が表示された。

『通学中の女子高生、車内で圧迫死。
 乗客は気づかずスマホに夢中――』

床に落ちた画面に、
血の滴が落ちる音がした。

自分の血だ。
胸から流れて、顎を伝い、
ポタリと落ちた。

その雫が画面に当たった瞬間、
画面に映る記事の写真の“少女の顔”が、ゆっくりとこちらを向いた。

それは後ろにいた少女と同じ顔だった。

潰れた片目。
折れた首。
耳の穴にめり込んだイヤホン。

「……助けて、って……言ったのに……」

私は叫ぼうとした。
でも胸が動かない。
肺が機能していない。
気道がつぶれ、空気が入らない。

ただ目を見開くだけの私に、
少女はかすかに笑った。

「ほら……あなたもだよ。
 誰も見てくれない。」

電車が揺れる。

押し合いが強くなる。

私は完全に “肉の一部” になっていく。

背中に食い込む無数の肘。
横腹で折れかけた肋骨。
腰に刺さる誰かのかばんの角。
潰れた胸の中心で、
心臓が必死に押し返すように鼓動している。

でもこの圧には勝てない。

視界が白くなっていく。
頭が酸素を失い、思考が霧に沈む。

ただ一つだけ、はっきりと分かる。

私は今、“死ぬ側”にいる。
 そして誰も気づかない。

少女の声が、最後に優しく囁く。

「ねえ……こっち来て。
 あなたなら、わかってくれると思ってた。」

白い光が沈み、
世界が闇へ落ちる。

車内は、さっきよりさらに混み始めていた。
夕方のラッシュが本格的に押し寄せ、駅に着くたびに誰かの身体が彼女に覆いかぶさる。
顔の見えない人々の匂い、汗、吐息。
吊革を掴む腕が壁のように重なり、その隙間で遥(はるか)は押し込まれるように立っていた。

その圧の中で、さっきの“ノイズ”はますますはっきりし始める。

——かさっ……こす、こす、こす……
——ひひ…ひ……。

耳の奥で、粘着質な呼吸が絡みつく。

視界の端。
鏡のように黒く光るスマホ画面の反射に、自分ではない目が映った。

遥の肩越し、すぐ真後ろ。
人影は密集していて誰が誰の体なのか判別できないのに、
その“何か”だけは輪郭が異様にくっきりしていた。

肌は薄紙みたいに白く、頬が落ち、
眼球だけが暗闇の中で濡れたように浮いている。
口は耳の位置まで裂け、ひくひくと痙攣していた。

(……なんで、誰も気づかないの?)

遥が震える指でスマホを点けようとした瞬間、
背中に“それ”の冷たい指が触れた。

ひたり……。
ひたり……。

爪の先が皮膚をゆっくり突き刺す、とてもわずかな力。
でもその感触があまりにもリアルで、
遥の呼吸が詰まった。

振り向けない。
振り向いたら、絶対に見える。
見えてしまう。

周囲の乗客は、誰も気づかぬままスマホを見たり眠ったりしている。
すぐ前のサラリーマンの額には玉のような汗が光り、
女子高生のグループはイヤホンで音漏れを響かせていた。

その“普通さ”が逆に、遥を底なしの孤立へと突き落とす。

爪が、さらに深く刺さる。
布越しではない。皮膚を割って、ぐち、ぐち…と音を立てて。

痛い。
でも声が出ない。
喉に空気が入らない。

その時——

車内放送が微かに揺れ、
「まもなく、◯◯駅〜」
というアナウンスが流れた。

その瞬間だった。

ドッッ
と背中から強い衝撃。
“それ”が、遥の背骨を押し砕くように激しく押してきた。

遥はバランスを崩し、前の乗客の背中に叩きつけられたが、
乗客は振り向きもしない。
まるで彼女がそこに存在しないかのように。

痛みが全身を襲う。
視界が白く、ノイズで満たされていく。

耳元で、凍ったような声が囁いた。

——たすけて、って
——いわなかった、よね?

その声が弾けた瞬間、
遥の背中に食い込んでいた冷たい指が、一気に深く沈み込んだ。

骨が裂ける音とともに、視界が反転する。
前か後ろか、上か下かすら分からない。

周囲の乗客は誰ひとり気づかないまま、
遥の身体はゆっくりと“空間の隙間”に沈んでいった。
押し潰されるように、
圧迫された闇の奥へ。

背中に沈み込んだ冷たい指が、骨の奥へと食い入った瞬間、
遥の視界はぐにゃりと歪んだ。

周囲の乗客は依然として、
スマホを眺めたり、眠ったり、無表情で揺られたりしている。
誰ひとり、遥の苦悶に目を向ける者はいない。

押し潰されるような圧迫の中、
遥の身体は“空間の隙間”へ吸い込まれるように沈んでいった。

最後に残ったのは、
遥のスマホについていた、ピンクのスマホリングだった。

それが床にぽとりと落ち、誰かの靴に踏まれて転がり、
別の乗客のバッグの影に埋もれて消えていく。

——次の駅。扉が開く。

空いたスペースに、また新しい人の波が押し寄せる。
遥がいたはずの場所は、まるで最初から空白だったかのように埋め尽くされる。

誰も気づかない。
誰も思い出さない。

電車は、何事もなかったように加速していく。

そして奥の方から——
あの湿った音がまた始まった。

——かさ…
——こす、こす……
——ひひ……。

まるで、次の“標的”を探すように。

翌日のニュース。
何気ない昼のワイドショー、その隅に短く流れるテロップ。

「女子高生・白石遥さん 行方不明」

淡々としたアナウンス。
曖昧な目撃情報。
“よくある行方不明”として処理されていく空気。

だが、同じ電車を使っていたクラスメイトの咲良(さくら)だけは、
胸の底に針のような違和感が刺さっていた。

昨日の帰り道、
乗った車内で見つけた“あれ”。

駅へ向かう足が自然と早くなる。

夕方。
ホームへ滑り込む満員電車。

乗り込んだ瞬間、息が詰まった。
昨日と同じ圧迫感。
昨日と同じ匂い。
昨日と——同じ“違和感”。

咲良は視線を落とす。

そこにあった。

ピンクのスマホリング。
遥が使っていたものと瓜二つの丸いリングが、
車内の隅で転がっている。

咲良は凍りついた。

リングの縁には、
指の跡のような汚れがついている。
ただの皮脂ではない。
黒ずみ、爪の跡のように細い削れがいくつも刻まれている。

まるで、
“内側から必死にこじ開けようとした”跡のように。

(……なにこれ……?)

拾おうと手が伸びかけた瞬間だった。

——パッ…パッ…パ。
スマホをタップするような音。

いや、音じゃない。

周囲の人の“指”が動いている。

スマホを見ていない人まで、
同じテンポで、
同じリズムで、
空中をタップするように指を震わせている。

——ぱっ、ぱっ、ぱっ。

まるで誰かの“操作を真似している”みたいに。

咲良の喉がカラカラに乾いた。

その時だった。

床のスマホリングが、
かたん……
と、わずかに揺れて位置を変えた。

人がぶつかったわけではない。
誰も踏んでいない。
なのに——

リングが意志を持って動いた。

咲良は息を呑んだ。

リングの穴の中が、
微かに暗く濡れて見える。
その奥に、
“目”のような影がちらりと揺れた気がした。

昨日の遥の最後の姿が脳裏に閃く。

(……あれ、もしかして……遥の……?)

次の瞬間、急ブレーキ。
乗客の身体が一斉に押し寄せる。

圧迫。
息苦しさ。
闇に溶ける視界。

それは遥が消えた時と
まったく同じ状況。

そして——

リングはその人混みの奥へ、
すぅ……っと滑るように消えた。

その先に立っていたのは、
ヘッドフォンをしながらゲームに夢中の女子高生。
昨日、遥と同じ車両にいた子だ。

彼女の足元。
落ちたリングが、
静かに“彼女のスマホ”の下へ転がっていく。

ゲーム中の彼女は気づかない。
ただ、
彼女の指だけが、
ゲームの操作とは関係なく——

——ぱっ、ぱっ、ぱっ。

無意識にタップのリズムを刻んでいる。

まるで、
遺された“誰かの指”が、そこに重なっているかのように。

電車が加速する。
その振動に合わせて、
女子高生のスマホ背面がかすかに揺れる。

よく見ると、
背面とケースの隙間に、
何か細い黒い線のようなものが入り込んでいる。

髪の毛のようでもあり、
ひび割れのようでもあり、
爪のようにも見える。

咲良の心臓が悲鳴を上げる。

彼女は次の駅で飛び降りるように電車を降りた。

ドアが閉まる。
視界の奥で、
女子高生のスマホがぼんやり光り、
その背面に“影のような指”が重なった。

——ぱっ……ぱっ……ぱっ。

まるで、
次の“順番”を教えるように。

咲良は震える声で呟いた。

「……満員電車で、スマホに夢中になるって……
 本当に、狙われやすいんだね……」

電車はトンネルへ消えていった。

その奥から、
かすかに擦れるようなノイズが聞こえた。

——こす、こす……ひひ……。
——ぱっ、ぱっ、ぱ。

それは、人の声なのか、
スマホ画面を叩く音なのか、
もう判別できなかった。